青い実

 中学三年生の頃、卓美の隣席の桔梗慎人ききょうまことは、変わった少年だった。長い前髪のせいか表情はよく見えず、いつもひとりで行動していた。休み時間は誰かと話すこともなく、何をするわけでもなく、いつも机に突っ伏して寝ていた。かと思えば、授業中や連絡事項などでは、聡明にはきはきと話すのだ。
 それが「フリ」だと卓美が気付いたのは、本当に偶然だった。どうしても眠くて仕方がなかった卓美も、休み時間に彼と同じように寝ようとした時、たまたま目が合ったのだ。
 彼の瞳は、とても美しかった。自身の本当の色を見透かすようなその瞳に、卓美は興味がわいた。
 それ以来、彼のことを気にするようになった。気がつけば彼の姿を目で追っていた。
 どうやら、彼は手の内を隠しているらしい。本当は運動も勉強もできるに違いないのに、そのどれもを程々に抑えていた。そうして、彼は、誰の気にもとまらない、つまらない人間を演じていたのだ。
 卓美はますます彼のことが気になった。
「どうして、できないふりをしているの?」
 卓美が持病とも言える、左目の検査の帰りに、ふと立ち寄った隣町の小さな図書館。そこに彼は居た。彼はひとりで勉強をしており、ちらりと見ただけで、それが高度なものであると理解できた。思わず卓美は彼に話しかけた。こうして彼と言葉を交わすのは初めてだった。
「……誰?」
 卓美の声掛けに、彼は顔を上げずにそう言った。
「私、同じクラスの……、って言わなくても、本当は知ってるんでしょ? どうして嘘をつくの?」
「嘘をついているという証拠は?」
 卓美は彼の瞳を指さした。
「眼、正直だから。気づいてないかもだけど、嘘ついたりしたら、わかりやすいよ」
 彼はそれを聞いて、心底嫌そうな顔を上げた。手に持っていたシャープペンシルの芯が折れる。
「ああ、そう……」
「……嫌だった? だとしたら、ごめんね?」
「うん、本当に嫌。もう俺に話しかけないでくれない?」
 彼は笑顔を浮かべると、ノートを閉じ、帰る支度を始めた。これを逃せば、もう二度と話せないかもしれない。そう思った卓美は、彼に問いかけた。
「また、話していい?」
「嫌だ。学校でも外でも、俺は緋星あけほしさんと話すことはない」
 彼は手を止めず、きっぱりとそう言った。卓美の胸がチクリと痛んだ。
「……そう。ごめんね」
 悲しげな表情を浮かべていたからだろうか。彼はまた大きなため息をついた。
「緋星さんってさ、自分が恵まれてることを理解してなさそうだよね。そういう顔をすれば今まで皆が構ってくれたのか知らないけど。俺、自分が恵まれてることに気づいていないやつ、大嫌いなんだよ」
 彼のその言葉に、卓美は酷く心を揺さぶられた。左眼があるはずの場所が痒くなる。
「そんなこと……」
「あるよ」
 彼の両眼が、どこまでも卓美を貫く。顔の左半分を隠すように伸ばした前髪も意味がないとばかりに。
「緋星さんって自分が可愛いと思ってるでしょ。左目は病気なんだっけ? でも困ってないのは、顔も、家族にも恵まれてるからだよ」
「どうして、そんな、……酷いこと言うの?」
 卓美の喉から出たのは引きつった声だった。
「桔梗くんに、私が困ってるかどうかなんて、わかるわけないでしょ」
 卓美が先ほど彼の瞳を指さしたように、彼もまた卓美の左目があるはずの位置を指さした。
「わからないよ。でも緋星さんが俺のこと決めつけてるのと変わらないじゃん」
 そして彼は鼻を鳴らした。
「……あとさ、いつも学校で俺のこと見てくるけど、あれも止めてくれない?」
 卓美はもう彼の顔を正面から見ることができなかった。視界は揺らぎ、足が震えていた。
「あ、もしかして俺のこと好きなの? はは、見る目もないね」
 彼は鞄を持ち、卓美を睨みつけた。
「また関わられるのも嫌だから、最初の質問には答えてあげる。俺ができないふりをしているのは、そっちのほうが俺にとって都合がいいからに決まってるだろ」
 それだけ告げると、彼は別れの言葉もなく図書館から去っていった。卓美は追いかけようとして、前髪をクシャリと握ると、その場にうずくまった。涙があふれ出る。とめどなく流れ落ちるその涙は、同時に胸に苦しみを溜めていく。
 その時、卓美は初めて自分が桔梗慎人に恋をしていたこと、そして今、失恋したことを自覚した。
 甘酸っぱくて、赤くて、実る前に踏みつぶされた初恋だった。

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