WORKS
novel
火は燃え尽きぬ
田上は歯を食いしばる。背中に火が付いたかのような、苛烈な痛み。かつて父に殴られたこともあったが、この熱に比べれば優しいものだった。
ろくでもない父だったと思う。
海辺の小さな村で、田上は父と二人、トタン小屋で過ごしていた。父は漁師のような、そうではない何かだった。ほとんど家に帰ってくることはなく、家に居たかと思えば酒を浴びるように飲んでいた。酔いが回れば殴られ、酒がきれても殴られた。父が家にいないときは平和、と言うわけでもない。家に変な男たちが訪れたかと思えば、わずかな金を徴収していく。誰も助けてくれる人はおらず、村の人には見て見ぬふりをされた。
いつか父を殺してやる。田上はずっとそう考えて生きていた。
転機が訪れたのは、田上が中学生になってしばらく経ったときだ。その頃には金を稼ぐべく、ネットでできる軽犯罪に手を出していた。簡単な詐欺程度ならば中学生でも簡単にできたからだ。父からくすねた金で安いタブレット端末を買った。くすねたことがばれた日は、次の日に立ち上がれないくらいに暴力を振るわれたが、タブレットだけは隠し通した。とにかく自分だけの金が欲しかった。いつしか身長も父に追いついたが、それでも父に勝てたことはなかった。洗脳というべきなのだろうか。父より金を稼いでも、父より背が大きくなっても、その拳に勝てる未来が見えなかった。
そんなある日のことだ。田上が家に帰れば、そこには土下座したまま足蹴にされている父と、いかつい男たちがいた。周囲に何もないボロ小屋だ、田上の帰宅はすぐにその男たちにばれた。
「おまえ、こいつの息子の田上静治郎だな? ちょっとこっち来いや」
足が震えて仕方がなかったが、田上は素直に従った。父の前に立つ男に近づけば、彼は田上の頭を掴んだ。後頭部の髪が抜ける痛みが走る。
「おまえの父ちゃんよ、最近カネ渡してこねぇんだわ。困んだよ、こっちもよ」
田上は父を睨みつけた。男はにやにやと、整髪料で固めた髪の匂いをきつく漂わせながら田上に話しかけてきた。
「なあ、おまえカネ持ってねえか? それかここで父ちゃんを殴って、謝らせる手伝いしてくれよ」
父を足蹴にしていた男たちが声を出して笑った。田上は部屋に転がった父の抜けた歯を見る。鞄の中にあるタブレットのことを思い、あまり悩むことなく男の方を向いた。
「……いいんですか?」
「お?」
田上は緩んだ男の手の支配から逃れると、父の歯を踏みにじった。父は田上が見下ろしていることに気が付くと、唾を飛ばしながら何かを叫んだ。その顔に足がめり込んだ。自分の足だった。それでも何の感情も沸いてこなかった。ただ、こんな男に恐怖していた今までの自分が情けなかった。
「やるねえ」
男が口笛をふき、笑い声と父の叫び声が家中に響いた。田上は終始無言で、男に止められるまで父の顔を殴打し続けた。父は息も絶え絶えで、拳に残った肉の感触が、これは現実なのだと訴えてきた。
「おまえ、いい根性してんね。こっちの世界むいてんよ」
男は煙草に火をつけた。その言葉に、田上はなにか可能性の糸を見た気がした。
「いま中学生だっけ? 惜しいなあ」
「……すいません。父に価値はもうありませんよね?」
「あ? なに急に」
田上は鞄からタブレットを渡すと、笑顔を浮かべた。
「ここに俺が稼いだ金が入ってます。先ほどの話なんですけど、数年後でも有効ですかね?」
男は笑顔を引っ込める。そのタブレットに映ったネットバンキングの残高と田上の顔を交互に見た。
「……おまえ、本当にこっちの世界にくる気か?」
「ええ。あと、そのタバコください」
田上はタバコの火を見つめていた。父のうめき声はまだ背後にあったが、もう恐怖はなかった。
半刻後には、ボロ小屋は燃えていた。赤々とした炎と煙は天高く昇っていく。黒焦げになった家からは男性の焼死体が発見された。田上は放火殺人罪で逮捕され、少年院へと送られた。
「タバコ、苦かったな」
逮捕されたとき、田上はそれだけ語った。
数年たち、出所した田上はかつての男を頼りに、竜胆組の下部団体の入り口を叩いた。
すぐに部屋住みとして受け入れられ、田上は過酷なその世界に身を置いた。弱音は吐かなかった。組長と杯を交わしてからは、ますます身を粉にして働いた。かつてのノウハウを活かしつつも時代に適応した、より効率的なシノギを見つけた。おかげで上納金に困ることなく、うまく出世ルートに乗ることができた。そうして三十代手前には、配下の組員もできていた。
「若いのによく働くなあ」
組織に上納金を収めた帰り。組長の屋敷の庭で、そう話しかけられた田上が振り返れば、そこには自分よりもひと回り若い男が立っていた。かつて自分が出所したときの年頃の男だった。
「申し訳ありません。どちら様でしょうか」
「俺は竜胆誠人。竜胆組組長の息子だ」
その言葉を聞いて、田上は勢いよく頭を下げた。失礼な態度はとっていなかっただろうか、と背中に冷や汗が流れる。竜胆は、いいって、と笑いながら田上に顔を上げるよう促した。
「それより聞きたいんだけど、あんた何でそんなに必死なんだ?」
「……金が欲しいんですよ」
「金ねえ。金だけが理由でこんな世界でやっていけないだろ」
竜胆は煙草を取り出した。田上はすぐに懐からライターを取り出し、竜胆に火を差し出した。
「いるか?」
「すいません。あいにくとタバコは苦手でして」
「へえ。つまらねえの」
竜胆は煙草の煙を田上の顔に向けて吐いた。受動喫煙で匂いに慣れているとはいえ、直接浴びた刺激に田上は思わず咳き込む。竜胆はその様子を見て笑っていた。
「あんた、俺のもとに来ないか?」
だから、田上は竜胆のその言葉に動きを止めた。
「本当は金なんかじゃないんだろ。その程度の覚悟で、ここまでやれるわけがない」
田上が無言で竜胆を見つめていると、竜胆は田上の背中を叩いた。
「墨はいれてんのか?」
「いえ、いれてないです」
「もし俺のもとに来る気があるなら、墨を彫ってこい」
竜胆は煙草の火を足で踏み消した。田上は叩かれた衝撃でズレた眼鏡をかけ直す。焦点のあった視界で、竜胆の笑顔はやけに輝いて見えた。
「逃げ道をなくす覚悟決めろ。この世界で面白く生き続けたいならな」
何日にもわたる苦痛を耐え忍んだ。
本当に欲しかったものは何なのだろう。ろくでもない父がきっかけで入ったこの世界。死にそうなほど苦しい熱と引き換えに、田上はようやくその答えを見つけられる気がした。
田上は背中をかき抱く。焼けつくような痛みの向こうに、大きなカメが、リンドウの花が浮かぶ背中の海を泳いでいた。