WORKS
novel
密やかな酒宴
密宮の携帯に電話がかかってきた。開いてみれば、そこには弟である郁の名前が記されてあった。
「よお、どうしたんだ郁。何か用か?」
『兄さん。あの、来月仕事で兄さんの家の近くまで行くことになったんだ。だから、良ければ泊めてくれないかなって』
懐いているにも関わらず、昔からどこか自分に遠慮しがちな弟の、こういった頼みに密宮は弱かった。顔をほころばせながら、密宮は弟の頼みを快諾する。
「全然かまわないけど。いつ?」
『来月の十日なんだ。それで、兄さんと一緒に夕食も食べれたら嬉しいなって。ちょうど兄さんが気に入りそうレストランがあって……』
「あー。十日か……。わかった。でも夕食に関しては先約があってさ。相手に延期できるか聞いてみるわ」
郁が楽し気に話す言葉を遮り、密宮は謝罪する。電話越しにでもわかるくらい、郁の声は残念そうな色を含んでいた。
『……仕事だった? ならそっちを優先してもらっても』
「いや、友達。久々に宅飲みしようって話になっててさ。まあ、そっちは多分大丈夫だから」
『女の人?』
「男だよ。ほら、大学の頃から付きあいがある先輩」
『ふーん……』
どこか尖ったような郁の声に、密宮は首を傾げた。郁は悩んでいるのか、言葉を選んでいるのか、しばらく無言だった。
「……郁?」
『うん、あのさ、兄さん。もし兄さんとその友人さんが良ければなんだけど――』
『という流れで、俺の弟も宅飲みに参加したいらしくて』
「はあ……」
『まあ、斎藤に会ってみたいんじゃないか?』
「いやそういうことじゃないと思うが……。まあ、あんたがそれでいいなら私は何も言わないが……」
斎藤はため息をついた。密宮と二人で宅飲みの予定だったが、彼の弟の参加を嫌だと断るのも、どうにもできそうになかった。それは密宮の願いを断りたくなかったからかもしれないし、彼の家族に心の狭い奴と思われたくなかったからかもしれない。
『郁は悪いやつじゃないから、あなたと仲良くなれると思うけどなあ』
「だといいが」
どうにも胸騒ぎがしたまま、斎藤はその日を迎えた。
部屋はいつも以上に綺麗に掃除し、普段は適当なものばかり入れられている冷蔵庫も、今日はデパ地下の総菜が入っているせいか、心なしか胸を張っているようにも見える。
チャイムの音が鳴り、密宮の顔がドアホンのカメラに映った。その後ろの男が、彼の弟の郁なのだろう。密宮はいつも通り、渡していた合鍵を使ってマンションのエントランスを抜けると、斎藤の部屋の前までやってきた。もう一度チャイムが鳴り、斎藤は中から鍵を開けて出迎える。
「よお。郁、彼が俺の先輩であり、親友である斎藤響だ」
密宮は満面の笑みを浮かべると、後ろに立つ男に斎藤を紹介した。斎藤は一度頭をさげ、社交辞令としての笑顔を作った。
「紹介に預かった斎藤だ。よろしく」
左手を差し出せば、彼もまた好青年と言わんばかりの笑みを浮かべ、その手を握り返した。
「初めまして。密宮郁です。兄さんの親友、なんですね。兄さんがいつもお世話になっています」
彼の笑みは密宮によく似ていて、兄弟なんだなあと斎藤はしみじみと実感した。しかし、握られた手がどこか強いのは、気のせいではないのだろう。
「……今日はゆっくりしてくれ」
「すいません、急に押し掛ける形になってしまって。ああ、これは手土産です」
「これは丁寧に。申し訳ない」
そう言いながら彼が渡してきた包みには、密宮が好きだとよく話している寿司屋の屋号が刻まれていた。斎藤はその包みを抱え、二人をリビングへと案内した。
密宮は勝手知ったるとばかりに冷蔵庫に買ってきた酒を入れる。郁はその様子をリビングから座って眺めており、斎藤は何とも気まずい気持ちになりながら、彼の前にグラスと小皿を用意した。
「なあ、郁はいつもの日本酒でよかったよな?」
「はい。兄さんと一緒のもので大丈夫です」
「斎藤は今日は何呑むんだ? てか珍しいもの入ってるな。普段こんないいツマミ買ってこないのに」
「別にいいだろ。私は一番上の棚のチューハイをとってくれ」
斎藤は郁の斜め前に座り、彼が持ってきた包みを開いた。中には斎藤が好きなネタと密宮が好きなネタが半々で並んでおり、斎藤は無言でそれを総菜が並ぶ机の中央に置いた。密宮は日本酒の瓶とチューハイの缶を持って、斎藤の正面の席、郁の隣の席に座った。
「はい、じゃあ乾杯!」
密宮の楽し気な掛け声とともに、三つのグラスが音を鳴らした。斎藤は緊張を抑えるために、グラスの中身を一気に煽った。
三人は自己紹介から、趣味から、他愛ない話をした。密宮は気心知れた斎藤と弟と飲んでいるからか、二人の間をとりなしながらも、楽し気に酒を飲んでいる。
しかし斎藤の体のざわつきが落ち着くことはなかった。郁の方を見る。彼の表情は常に笑顔で、所作の隅々から品を感じ、気配りも完ぺきだった。斎藤は、彼が密宮の弟であること、彼もまた御曹司であることをしみじみと感じた。
郁は密宮の二歳下であり、斎藤たちと同じ大学で経済学を学んでいたのだという。ならばキャンパス内ですれ違ったことがあるかもしれないな、と話せば、彼は「兄さんと同じ研究室だったんですよね。でしたら、あいにくと覚えてはいませんが一度顔を出したことがあるので、もしかするとその時に対面したことがあったかもしれないですね」と返された。斎藤は、そうか、と言って寿司に手を伸ばした。好物のエンガワは、舌にのせると脂が溶けていく。間に挟まれた大葉の爽やかさが、どうにも脂に負けてしまった。
しばらく談笑していれば、密宮がこくりと船を漕ぎ始めた。斎藤と二人で飲むときよりも早いペースで酒を入れていたからだろうか。密宮なりに気を使っていたのかもな、と斎藤は考える。
「お開きにするか?」
「んあ、そうしようかなあ。今日は郁もいるもんなあ」
密宮は郁を見てへにゃりと笑った。
「兄さん、帰りはおぶりましょうか?」
「そんなこと郁にさせられねえよ。斎藤、ちょっと洗面台借りるわ」
「好きにしろ。タオルはいつものところから使え」
「わかった」
密宮はどこかおぼつかない足取りでリビングから出ていった。二人きりになったリビングで、斎藤は密宮のグラスに水を入れてやろうと、冷蔵庫の方へ向かうために立ち上がろうとする。
「兄さんと随分親しいんですね」
そんな斎藤に、郁が口を開いた。先ほどよりも少し低い声で、笑顔のまま、言葉を続ける。
「斎藤さん、少しお聞きしたいことがありまして。兄さんの親友、とのことですが、いつからそんな仲に?」
斎藤はそんな郁に何と答えるべきか迷い、正直に話すことにした。
「親友、と言われると違う気もするが、仲良くなったのは密宮が同じ研究室に入ってきてから、そこそこ経ったあたりだと思う」
「確かに、先ほど兄さんもあなたと出会ったのは研究室でだ、と言っていました。ですが、兄さんはあなたのことを親友だと言っていたのに、そんなつもりはない、と」
郁の瞳に鋭さが増した。斎藤はその視線にたじろぐ。
「では、あなたは親友でもない人間に合鍵を渡すような人なんですね」
「……何が言いたい?」
「いえ、僕はあなたが兄さんのことをどう思っているのか、知りたいだけですよ」
斎藤は、自宅にいるのに居心地の悪さを感じていた理由を、ようやく理解した。郁はずっと、斎藤を見極めるつもりでここに来たのだろう。兄を慕う好奇心、のような生易しいものではなかった。
「兄の交友関係に口を出すのは、どうなんだ?」
「はは、僕の家のことに口を出さないでほしいですね。自分の兄を心配して、何が悪いんですか?」
斎藤と郁は互いに笑みを浮かべていた。二人は無言で互いの出方を探ろうとする。
しばらくすれば、顔を洗った密宮がリビングに戻ってきた。二人は表情を戻し、密宮の方を見る。密宮は二人の顔を見て、またいつもの笑みを浮かべた。
その後、全員で軽く後片付けをし、最後まで片づけを手伝うと言う密宮の申し出を斎藤は断った。なんとなく、郁に自分と密宮の関係を必要以上に探られるのが嫌だった。
「じゃあ次は俺の家で飲もうな」
密宮のその言葉に、ああ、と斎藤は答えた。郁の笑顔の彫が増したことには気づかないふりをした。
「お邪魔しました。じゃあ、またな」
「はは。お邪魔しました。今日はありがとうございました」
密宮と郁は並んで帰っていった。どこから見ても仲のいい兄弟だった。斎藤はしばらくその背を見つめていたが、ドアを強く閉めて家の中へと戻った。