WORKS
novel
ぼくとミケくん
また寝ているのか、と上から声が降ってきた。それに手を振ることで返事とする。ひとつ溜息、それからぼくの代わりに画材を片付けてくれる音。いつもの流れだ。この後浴びせられるであろうお叱りの言葉まで想像できる。
ぼくは片付けの音を聴きながら、じっと横になって雲の流れを眺めていた。夕日によって淡い紫の影がついた雲は、空を幻想的に染め上げている。生前から景色を見ることは好きだった。千年もの時が経ち新たな生を得た今、あの時では想像もつかないようなものが蔓延るこの世界は、飽きることなく魅了させてくる。例え何度新しい生を得ても、ぼくはこうして世界を観察するのだろう。ただ気まぐれに、誰からの言葉を振り払って。ぼくはチビやミケくんが居なくても美を求め、感情を昂ぶらせて、噛み砕いて、そして形にする。生前からそうだったのだ、今更この生き方は変えられない。結局ぼくは自分の世界さえあればいい人間なのだ。そう自覚していた。
日が完全に落ちようとしている。冷えた風が吹き始め、ぼくの髪が靡いた。細く長いこの髪を鬱陶しく思うこともあるが、こうあれと望まれて作られた体だ。ぼく個人として容姿に思い入れはないが、切るに切れないでいる。
手を伸ばしてもあの空にはきっと届かないのだろう。だから髪を指に巻きつけた。髪は絡まることなく、するりと指から流れ落ちてく。何度となく繰り返しているうちに、鞄が閉じられた音が響いた。やけに大きな音だったので、ぼくは目を閉じて笑う。この世にまたひとつ溜め息が産み出された。
しばらくして、ぼくの頭に影がおちたのがわかった。今日の嫌味はどのくらいの長さかな、とそんなことを考えながら目を開け、世界の焦点をあの子に合わせた。あの子は、ミケくんは上からぼくをじっと見詰めている。ただ、目線はどうにも合わない。
ミケくんがいつものように話し出すのをぼくは待っていた。ミケくんはいつも鋭くとがったナイフのような態度をとるけれど、時折柔らかいところを見せてくれる。そういうところが愛おしいと最近感じるようになった。「彼に対してそう思ったことはないけれど、本人が自覚していない動作が可愛いというのは、まあわからないでもないね」と輝きもなにもない眼で返答したチビが頭をよぎった。ああ、チビにも久々に会わないといけない。今のぼくはチビのおかげでミケくんのおもしろさに気付くことができたのだから。
ぼくが取り留めのないことを考えているように、ミケくんもそうなのか何秒待てども口を開くことはなかった。ぼくは未だに合わない眼を細める。別にぼくから話しかけてもいい。それでなにかが変わることはない。ただぼくがミケくんに「求める」行動をするなんて、あり得ないと心の底から思う。だからぼくは立ち上がって帰ろうとした。
しかし、ぼくが立ち上がることはなかった。立ち上がろうと上半身を起こすと、ミケくんがゆらりとぼくの隣に腰を下ろしたからだ。珍しいな、と思わず声に出してしまう。
ミケくんはそんなぼくには構わず、ゆっくりと髪へ手を伸ばしてきた。
ぼく達は決して仲がいいわけではない。むしろ敵対視しており、仲は悪かったと言えるだろう。それは生前からだ。勿論今は嫌味の応酬ばかりとはいえ話さないわけではないし、驚くことに一緒に食事をとったりもする。でもそれは、新しい在り方を得たたった二人の者同士で、生前面識があったが故に構築できた関係でしかない。面識がなければ一日に一度も会話をしなかっただろう。ミケくんよりも先に新しく生と情報を得て、ぼくはミケくんに対して比較的友好的な態度をとっているつもりだ。だがミケくんも同じとは限らない。ぼくがミケくんへ発した言葉は、何故かわからないが後生にも残っていた。ミケくんの生前の軌跡と現在付けられている評価を見るに、ぼくのその発言は当時のミケくんをこの上なく怒らせたに違いない。まあ今でもそう考えているしお互い様だし、言葉を撤回するつもりは毛頭ないが。
そんな関係がぼくたちだった。だからこそ、ミケくんがこうしてぼくの髪を触れようとしてるという事実が、なんとも恐ろしく、神秘的に感じてしまった。
ミケくんの手が髪に触れたのがわかった。ゆっくりとその存在を確かめるように、髪の中腹から毛先へとミケくんの指が動く。だが所詮髪だ。その指先の温度をぼくが感じることはない。ただじっと黙ってミケくんのその行動を見ていた。
「髪」
しばらくミケくんは髪を撫で、ぽつりと呟いた。
「切るのか?」
ぼくはミケくんが触れていない方の髪を手にする。生前とは全く違うその髪は、よくできているとは思うが、やはり自身のものとは思えない。
「ぼく、そんなに切りたそうな顔してた?」
「していた」
「へえ、じゃあ切ろうかな。鬱陶しいし」
唐突に目と目があった。今まで髪に向けられていたミケくんの意識が、ぼくという存在自体に向けられた。いつだって自分を曲げようとしない、その気難しくて信念の強い目がぼくを射抜く。あなたが私の言うことを聞くような人ではないのは知っているけれど、と目が訴えてくる。
「切らないで欲しい」
風がぼくらの間を通りすぎていく。靡いた髪がぼくの視界を緩く遮った。夕日に照らされ輝く白髪越しでも、ミケくんのその目は、今日見た何よりも美しかった。体の内側から何かが沸き上がってくる。
「……なんで?」
ミケくんの一挙一動を見逃さないように、ぼくは目を見開いた。ミケくんは少しも怯むことなく、当然だというように言葉を紡ぐ。
「美しいものが意味もなく散らされようとするならば、止めるだろ?」
知らず知らず口角が上がっていくのを感じる。
「いやまあ、あなたの性格も作品も好ましく感じてはいない。けれども、本当に腹が立つけれども、あなたの今の容姿は決して余分なものではない」
ぼくはやはりミケくんに好意は抱かれていなかったらしい。だがもうそんなことはどうでもよかった。
ミケくんの手がぼくの頬に触れる。ミケくんの手の温もりがじわりと冷えた肌に移る。ミケくんもこの冷たさを感じてくれているのだろうか。
「──あなただってそうは思わないか? レオナルド・ダ・ヴィンチ」
ぼくは大きく笑い声をあげた。
「きみとぼくってもしかして似たもの同士なのかもね。ミケランジェロ・ブオナローティ」
ミケくんはひどく顔を歪めた。そんなわけないだろう、と珍しく大声で怒鳴りつけられる。
そうだった、こういう奴だった。ぼくとは道を違える才能ある年下。その顔の下には煮えたぎるような嫉妬と嫌悪感を持っているくせに。それでも今のきみは最高だ。
ミケくんの手にぼくの手を重ねる。腹の奥から沸き上がってくるこの名前のつけられない激情は、創作のいい糧となってくれるだろう。その礼だというように、ぼくはミケくんの手を引き、立ち上がった。頭のなかでいくつもの構図を浮かべる。色はどうしようか、ミケくんの髪の色を下塗りに使うのはどうだろう。
面白い絵が描けそうだ、と思考を声に出してしまっていたらしい。ミケくんは、ああそう、と変わらぬ表情で言った。