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novel
黄昏
斎藤は握った手を振りほどけないでいた。自分からその手を握り返したのだから、即座に離すというのは無礼な気がする。しかし今すぐ離したい気持ちも嘘ではなかった。
「……私は別にいい人ではない」
どうすればいいのかわからず、斎藤は先の言葉にそう答えた。いい人だなんて自分に使う言葉ではない。斎藤は心からそう思っている。少年、もといアオはくすりと笑った。
「おや。見ず知らずの人を介抱するような人間は、世間一般ではいい人に分類されるのだと思っていたけれど。きみの中では違うようだ」
一度斎藤の手を強く握り、アオは繋いでいた手を離した。
「どうも聞きたいことが多そうな顔だね」
斎藤は自分の表情が分からなかったが、彼の言葉に、そうなのかもしれない、と思った。実際、斎藤がアオに対し聞きたいことは山ほどあった。出会いから今に至るまで、夢だと言われてもきっと信じるだろう。それほどまでに斎藤にとってアオは理解が及ばない人間だった。
「いいよ。なんでも答えてあげよう」
アオは手を打ち鳴らす。そして目を細めた。
「まあ、きみがぼくの話すことを信じるかは別だけど」
その言い方はどこか他人事のようで、斎藤はべたつく指を擦った。斎藤の返答を待っているのか、真っ直ぐに斎藤を見つめたままアオは手遊びをしている。骨ばった細い指を絡ませる様子を見て、斎藤はわずかに嫌そうな顔をした。部屋は未だに埃っぽく、本の匂いに包まれている。アオの手遊びが止まった隙を見て斎藤がその手をとれば、彼は心底驚いたような表情を見せた。
「へえ、何をするつもりなのかな?」
「……まず風呂に入れ。話はそれからだ」
そう言うと斎藤はアオの返事を待たず、手をひいて洋室を出た。えっと、と背後から聞こえる困惑した声を無視して、部屋を出てすぐ目の前にある扉を開いた。そこは洗面所のようで、洗面台と洗濯機が置かれている。斎藤は手を離し、洗濯機横のスタンドからマットを手に取った。アオは未だ困惑した様子で辺りを見回していた。
入れと言ったものの、今から風呂を掃除して沸かすとなると彼を多少待たせる必要がある。斎藤は奥にある折れ戸の前にそれを敷きながら、扉を顎でしゃくった。折れ戸の先は浴室につながっている。
「シャワーの使い方くらいはわかるよな?」
「記憶と変わらないなら、まあ……」
斎藤は、そうか、と頷いた。
「じゃあ入れ。タオルはこの棚の上に置いておく。脱いだものはそこのかごに直接入れておけ」
「ちょ、ちょっと待って」
「着替えはこちらで何かしら用意する」
「展開が早いんだよ。待てって言ってるじゃないか」
アオは斎藤の言葉を遮った。話しながら下着を用意していた斎藤はその手を止める。こめかみに手を当てるアオの顔は、苦虫を噛み潰したようだった。
「え、風呂だって? こういう時は質問攻めにあうのを覚悟してたんだけど……」
低い声でアオは口ごもる。日本語だけではなくドイツ語も混じったその言葉を、斎藤は聞き流した。棚からスウェットを取り出しては確認し、そして戻す作業を繰り返す。
「何をぶつくさ言っているんだ。質問があるなら聞くぞ」
アオは目をこれ以上ないほどに見開いた。
「……ぼくが、きみに対して、質問があるかと言ったのかい?」
掠れた声でアオはそう言った。斎藤は淡々と答える。
「そうだが。シャワーの使い方がわからないなら恥ずかしがらずそう言えばいい」
服の裾を握り、彼は引きつった表情を見せる。
「いや、それはわかると思うけど……」
「なら早く入ったほうがいい。率直に言うが、ゴミ捨て場で寝ていたからか、汚れと匂いがひどいぞ」
アオは一呼吸おいて、洗面台に取り付けられている鏡の方へ近づいた。斎藤の横を通り、彼は鏡と向き合う。鏡はその場に在るものをそのままの姿で映しだす。アオは自身を上から順に確認していった。破れた服を着て、土や埃を頭から被ったかのように汚れた己の姿を。しばらく鏡と向き合っていたが、やがて傷まみれの素足でひらりと一回転した。そしてアオは大声で笑い始めた。ははは、と軽快に笑うさまは、先ほどまでとは異なり、斎藤には年相応のように見えた。
「きみ、本当に面白いなあ!」
斎藤は黙って靴下を脱いだ。濡れているからか脱ぐのに少し時間がかかる。その間もアオは笑い続けていた。水気と埃まみれの靴下を洗濯機に入れ、彼を置いて洗面所から出ようとする。すると、アオはその背に質問を投げかけてきた。
「ぼくを一人きりにしていいのかい?」
振り返ることなく斎藤は後ろ手で扉を閉める。
「自分はどうも『いい人』らしいんでね」
扉が閉まると同時に、また大きな笑い声が反響した。
斎藤はアオが出てくるのを待つ間にコップを洗うことにした。その前に斎藤はつけっぱなしであったコンタクトを外し、眼鏡を手に取る。眉間を抑えながらキッチンに行けば、自身のすきっ腹が情けない声をあげた。枝豆だけでは足りなかったようだ。
ちょうど同じタイミングで洗面所の扉が開いた。間をあけずに居間にアオが現れる。手にタオルを持っているものの、下着一枚で現れたアオの髪からは水がしたたり落ちていた。斎藤を探すためか、ふらふらと顔をあちらこちらに向けている。その体はやはりというか、薄く骨ばっており、第二次成長期途中の体つきをしていた。アオはキッチンに居る斎藤を見つけると、どこか嬉しそうにほほ笑みを浮かべた。
「最近のシャワーは便利だね。技術発展は目まぐるしいものだ」
斎藤はどう声をかければいいのかわからず、溜め息をついてアオを手招きした。素直に斎藤の前に歩いてきたアオの手からタオルを取ると、彼の髪を乱雑な手つきで拭き始めた。
「最低限髪は拭け」
「おおお。ちょっと痛い」
頭の揺れと共に謎の声を出すアオだったが、その言葉に斎藤の手つきは少し優しいものになった。
「……髪を拭いてもらうだなんて、随分と久しぶりだよ」
アオのことを、斎藤はちぐはぐだと感じていた。少年の体をしているのに、精神は成熟しているかのように感じる。しかし、ふとした仕草は子供のそれであった。
「お腹は減っていないか?」
「なにか作るのかい?」
「いや、今から買いに行くつもりだ。ついでにあんたの服も買おう」
タオル越しに斎藤はアオの頭を一度軽く叩く。
「それは、ぼくも着いて行っていいということかい?」
「最初から一緒に行くつもりだったが……。ここにいるか?」
アオは大きく横に振った。行きたいな、とどこか楽し気な声で答えるアオを見て、斎藤は小さく笑った。
「なら早く服を着ろ。一緒に置いてあっただろう。その格好で外に出る気か?」
「ぼくにあれは大きすぎる」
斎藤は小さく息をつくと、デスク横のハンガーラックへと向かった。ハンガーにかけられていたシャツと、ラック下にしまわれていたズボンを枚手に取ると、アオに渡して着用を促した。シャツもまたアオの薄い体には少し大きいように感じられるが、袖をまくってやればそれらしく見えた。ズボンの丈はちょうどいいようで、その細い腰からずり落ちないように斎藤はベルトを締めてやる。ありがとう、と言いながら、アオはされるがままに斎藤を見つめていた。
「きみは着替えないのかい?」
使用したタオルを洗濯機の方へと持ってくアオにそう問われ、斎藤は昨日から着の身着のままであることを思い出した。一度袖口を嗅いでみれば、汗を吸った繊維の嫌なにおいがする。
「……シャワーを浴びてくる」
「そう。じゃあ待っている間、あの部屋の他の本を読んでいてもいいかな?」
「汚さないならば好きに読んでくれて構わない」
アオはタオルを洗濯機に丁寧に入れると、洗面所正面に位置する洋室へと歩いて行った。その背を見届けた後、斎藤は自身も体を洗うために浴室へと向かった。
斎藤が体を清め、台所で水を飲み、身だしなみを整えて外出する準備を終えても、アオは洋室で本を読み続けていた。呼びに来た斎藤にも気が付いていないのか、アオの読書の集中力はすさまじいものだった。
「おい」
「……あ、ごめんごめん。買い物だったね」
アオは斎藤の言葉に立ち上がると、申し訳なさそうに本を閉じた。
「じゃあ行こうか」
「キリがいいところまで読み終えてからでもいいが」
「いいよ。止めてくれないと、ぼくは部屋の本を読み尽くすまで、あの場所から動かないだろうから」
そう言って、アオは斎藤の横に立って微笑んだ。
もはや靴とは呼べない皮切れを履いていたアオの為に、斎藤は玄関の端にあったサンダルを貸してやる。
扉の向こうには晴天が広がっていた。空気はじっとりと重く、陽射しは肌を焼くように強い。うだるような暑さの中、二人は並んで太陽の下を歩いた。サンダルの音がアスファルトに反響する。
駅前までは徒歩十分ほどだというのに、ことあるごとにアオが「あれはなんだい」「これはどういう仕組み?」と聞くものだから。斎藤は昨夜と同じように、二十分かけてようやく駅前のショッピングモールに辿り着いた。無言で歩かれるよりはよほどいい。けれど、ここまであらゆるものに反応するのは、さすがに不自然だった。まるで日常を構成するものすべてが、アオにとっては初めてであるかのようだ。そう考えながら、斎藤は少しだけ歩調を緩めてアオを横目で見る。彼は変わらぬ笑顔で、変わらぬ瞳で周囲を見渡していた。
駅前は土曜日だからか、普段より人が多かった。金髪で整った顔立ちの少年と、汗をかいた中年の男が並んで歩いていれば、目立つのも当然だろう。斎藤はちらちらと向けられる視線を肌で感じていた。アオ本人は、周囲の目など一切気にしていないようだった。むしろ、そんなものが存在していることすら気づいていないようにさえ見える。
「ところで、なんだか人が多いところに来たけど、どこで買い物をするんだい?」
「そこの通りの大きな建物だ」
呑気なアオの言葉に答えるように斎藤が指差した方向には、ガラス張りの巨大な複合施設がそびえ立っていた。
「端から端までかなり距離があるけど、この建物内全てで商品を販売しているのかい?」
「ああ、それこそゆりかごから墓場までな」
斎藤は自動ドアの前に立った。センサーに反応して、重たげなガラス戸が滑るように開く。中からは冷房の風が吹き抜け、火照った体を冷やした。軽快な館内音楽がそこかしこに溢れかえっている。色とりどりの商品棚や店先の看板、人々の足音が複雑に絡み合いながら、無数の物語がこの巨大な空間を満たしていた。アオは何度か瞬きをすると、新鮮な驚きをその瞳に映した。
「本当に全部が商店なんだね。室内での市場みたいなものか」
さっさと目的のものだけ買って帰ろう。人混みは好きではなかったし、この暑さの中での買い物はできるだけ手早く済ませたい。けれども、アオの横顔を見た瞬間、斎藤のその考えは薄れていった。天井を仰ぎ、光の粒を目で追い、棚ごとに並ぶ商品や装飾に瞳を輝かせる。その姿は無防備で、素直で、どこか無垢だった。そんなアオの反応を前にして、急かせることはあまりにも無粋に思えた。目の前に広がる空間を共に眺めながら、斎藤は肩の力を抜いた。
ちょうどそのとき、二人のもとへ店内案内のAIが滑るように近づいてきた。艶のある肌色のボディに、どこか人形じみた無表情の顔。プログラムされた仕草で小さく頭を下げると、合成音声が淡々と「いらっしゃいませ」と繰り返す。不気味の谷を越えた出来とはいえ、ロボットらしさは消えない代物だ。アオは不可解なものを見る目つきで、それをまじまじと見た。
「なに、これは。……人ではないよね?」
「商品がどこにあるのかを教えてくれる機械だ」
斎藤は歩き出すでもなく、答えるだけ答えてアオの反応を待つ。
「人の形をさせているのは何故?」
再び投げかけられる問いは、斎藤にとって当たり前すぎて、逆に考えたこともなかった部分だった。
「さあ。昔からこうだ。親近感が湧くからじゃないか?」
「……ふーん」
やがて、アオがぽつりと呟いた。
「傲慢だね」
その言葉に斎藤は言葉を探したが、うまく答えが見つからなかった。沈黙が少しだけ続いた。
「じゃあ、行こうか。まずは服屋だったよね」
アオは軽やかに笑いかけ、斎藤の手を引いた。その手の冷たさが伝わると同時に、斎藤は重い空気を少しだけ軽く感じた。目の前に広がる見慣れた光景も、アオに照らされて新鮮に映る。
二人が一番手近にあった服屋の入り口をくぐると、涼やかな冷気と色とりどりの衣類が目に飛び込んできた。量産品の安価な服が無造作に積まれた店内は、どこか無機質な雰囲気をまとっている。アオはゆっくりと辺りを見回し、棚に並んだシャツやパンツに触れた。
「こういうの、どれも同じに見えるけど、何か違いがあるのかい?」
斎藤は商品をいくつか確かめながら答える。
「素材や縫製が違うんだ。とはいえ、私も服に詳しくない」
「あの店と、この店の商品の違いは?」
アオはふと店の外を見やり、道を挟んで向かいにある高級ブランドのアパレルショップを顎で示した。
「知らん。私は服に機能性とデザインのシンプルさしか求めたことがない」
「ああ、きみはそうっぽいなあ」
「どういう意味だ」
アオは小刻みに笑いながら、服の山の中から手探りで一枚のシャツを引っ張り出した。胸元に掲げて斎藤に見せる。
「じゃあ、これとかどう?」
彼が手にしていたのは、ポップなイラストがプリントされた子供向けのシャツだった。ビビッドカラーのそのイラストは、明らかにアオが適当に選んだことがわかる代物だった。
「……まあ、あんたがそれでいいなら」
「似合わないって顔だね」
斎藤が曖昧にそう返すと、アオはにやりと目を細めた。
「でも、ぼくもきみと同じさ。服は着れたらいい。場所場所に応じた服ってのがあるのは前提としてね」
アオはシャツを胸元に当てて、くるりとその場で回ってみせた。店内の通路でファッションショーの真似事のような動きだったが、その姿はなぜか様になっていた。斎藤は苦笑交じりに呟いた。
「じゃあその服の適した場所は?」
「うーん。きみの家、とか」
斎藤は無言で棚から無地のシャツを一枚取りだすと、アオに押しつけた。そのまま他にも無地のズボンやシャツを手早く選び、アオの腕に積み上げる。
「とりあえず、そこでサイズが合うか試着してこい」
服屋の隅。カーテンで区切られた簡素な試着スペースの前で、アオは一歩立ち止まった。
「これ、ぼく一人で入るの?」
「当たり前だろう」
「こういうのって、誰かに見てもらうものなのでは?」
「わかった。見てやるから、とりあえず着替えてこい」
斎藤は溜め息混じりに言いながら、近くの棚にもたれて腕を組んだ。アオは少し唇を尖らせたが、言われた通りにカーテンの内側へと入っていった。
布の擦れる音。脱ぐ気配と、着る気配。それに続く小さな沈黙。店内に流れるポップミュージックが、やけに薄っぺらく響く。
斎藤は何気なく周囲に目をやった。高校生くらいの女子たちがこちらを見ているのが視界の端に映る。話し声までは拾えなかったが、笑い混じりのひそひそ声が、耳の奥で鈍く残った。斎藤は先ほど鏡に映ったアオと自分の姿を思い出す。でこぼこで、ちぐはぐだった。
しばらくすれば、カーテンの隙間からアオが顔をのぞかせた。
「これでいい?」
「全部着たのか?」
「うん、たぶん。動きやすいし、涼しい」
斎藤が頷くより早く、アオは外へ出てきた。白いシャツに、黒いズボン。極端なデザインのない、ただの無地の服だというのに、彼の体によく馴染んでいた。やせ細っているも、スタイルの良さと少年らしい体つきがよくわかる。
「……問題なさそうだな」
その言葉に、アオは満足げにうなずいた。シャツの裾を軽く引っ張って、姿勢を正してみせる。
「何着も試着させてもらったあとで言うのも申し訳ないけど、ぼくはお金を持っていないよ」
「そんなわかりきったことを今更言わなくていい」
斎藤はそう言いながら、アオからサイズの合った服を受け取った。軽く畳んでまとめた服を腕に抱え、レジへと歩く。アオはそれに続きながら、店内のディスプレイに視線をさまよわせていた。
「商品お預かりしますね」
「すいません。これと別に、この服は着たまま帰らせます」
若いスタッフが、かしこまりました、と頷いてタグを読み取っていく。ピッ、ピッ、と音が鳴るたび、斎藤の頭のどこかで現実という文字が打ち込まれていく。
支払いを済ませたあと、斎藤は袋に入れられた他の服を片手に受け取った。振り返ると、アオは壁の姿見の前に立ち、自分の服装をくるりと一回転して確かめていた。
「気に入ったのか」
「うん。いい服だ。なにせ」
言いかけて、言葉を切り、いたずらっぽく笑う。斎藤はやや渋い顔をしたが、それ以上何も言わず、肩をすくめて歩き出す。アオもまた軽やかな足取りでその隣に並んだ。
「次は?」
「今日と明日の食事を買う」
「いいね。食べ物も、ぼくには買えないけど」
そんな一言をぽろりと漏らしたアオに、斎藤は今度こそ明確なため息をついた。そして、何も言わずにエスカレーターの方へと向かう。アオはやや間を置いてから、笑ってその背を追った。
地下一階の食品売り場へ降りると、熱気とともに、香辛料や焼きたてのパン、甘い菓子などの匂いが一斉に押し寄せてきた。照明は明るく、床はどこも清潔に磨かれている。カートを引く音と商品を勧める店員の声が響き、どこか騒がしくも生活の気配に満ちている。
買い物かごを手に持ち、斎藤は売り場へと足を向けた。アオは少し歩いた先、野菜売り場の前でふと足を止めた。色とりどりの野菜が、段差をつけた棚に整然と並べられている。どれもまるで模型のように形が一定で、どこにも痛みやしおれが見当たらない。
「……こんなに?」
思わず漏れた声は小さかったが、感嘆と困惑が入り混じっていた。
「収穫期でもないだろうに。これ、全部新鮮なんだろう?」
斎藤はその横で手に取ったトマトを軽く押して確かめながら頷いた。
「そうだな。温室栽培などで今は年中さまざまな野菜を食べることができる」
「ふうん……」
アオは興味深げにラベルを一つ一つ眺めていたが、やがて眉をひそめた。
「輸入品はあまり無いんだね」
「最近は外交的な問題もあって、国内回帰傾向が進んでいるからな」
アオは何も言わず、短く唸って果物の山に目を移した。オレンジやバナナの山が、色彩の洪水のように籠を満たしている。だがその手前で、アオの指先がふと止まった。
「豊かだ」
その一言には、感嘆と、少しの戸惑いが混じっていた。
「こんなに食品が多いと、大量に余るだろうに」
斎藤は言葉を返す前に、わずかに息を止めた。アオはただ感じたままを口にしただけだったのだろう。責めるような口調ではなかった。
「……そうだな」
斎藤は短くそう答えると、視線を手元のかごに落とし、静かにカット野菜の袋をひとつ入れた。袋越しに伝わる冷たさが、なぜか場違いに思える。食べ物が豊富であることの幸福を、アオの言葉で改めて突き付けられたような、そんな感覚を覚える。
アオは再び歩き出し、鮮魚と精肉の売り場を横目に通り過ぎる。氷の上に整然と並べられた切り身や、発泡トレーにラップされた肉の山にはほとんど目を留めず、そのまま加工肉のコーナーへ向かった。彼の視線が止まったのは、ウインナーのコーナーだった。艶やかなビニール包装に包まれた小ぶりなソーセージがいくつも並んでいる。
「おお、ウインナー」
その言い方には、懐かしさとも好奇心ともつかない、不思議な響きがあった。
「好きなのか?」
「別に。特にこれといって好き嫌いはないよ」
そう言いつつ、アオはガラス越しに陳列棚をじっと見つめていた。視線が忙しく動き、一つ一つのパッケージに描かれた調理例や文字に目を走らせていく。
「これ、味は濃い?」
アオが手に取ったのは、粗挽きのポークウインナーだった。
「たぶん」
「じゃあ、これにする」
斎藤にその理由はよく分からなかったが、アオは満足そうに頷いて、ウインナーのパックをかごに入れた。
そのまま通路を折れ、冷凍食品コーナーへ足を進める。透明な扉越しに、霜のついた商品がずらりと並ぶ棚が連なっていた。普段、忙しい生活の中で、冷凍食品は斎藤にとって不可欠な時短アイテムだ。
「これ全部冷凍ってことは、保存用ってことだよね」
アオは立ち止まりながら、小さく呟いた。
「そうだ。解凍してすぐ食べられる」
斎藤の説明を聞きながら、アオはゆっくりと歩を進める。ちらりと横目で見やると、斎藤のような買い物客がいくつかの棚に群がっていた。
「あんなに生鮮食品が溢れかえっているというのに、きみ含め、ここで商品を手に取る人が多いね」
「私はあまり料理をしない。だから日持ちするものを買う。同じように日持ちすることを基準に買う人が多いというだけだろう」
斎藤はそう答えて、扉を開け、冷凍の焼き魚セットを一つ手に取った。アオも隣の棚に目をやり、無言で餃子のパッケージをつかんだ。袋の表にプリントされた、湯気まで描かれたリアルな写真をじっと見つめる。訝しむような、それでいて抗えないような興味が、アオの表情に滲んだ。
「……これが、本当に、こうなるの?」
呟きながら、アオはそれをそっとかごに入れた。そこからは早かった。炒飯、唐揚げ、焼きうどん、エビピラフ、お好み焼き。目についたものを次々と手に取り、迷いなく放り込んでいく。袋はどれも似たようなサイズだが、数が増えるにつれて、かごは徐々に深く沈んでいく。斎藤が持ち手を握り直すと、底のプラスチックがわずかにきしんだ。
「そろそろ行くぞ」
斎藤が声をかけると、アオは軽く頷いた。
二人は冷凍食品コーナーを離れ、レジへと続く通路をゆっくり歩いた。目の前に見えるレジカウンターには、数人の客が順番を待っている。店員が手際よく商品のバーコードを読み取り、会計を進めている光景が目に入った。
すぐに順番が来て、斎藤はかごをレジ台に置く。対面のレジ店員は少し年配の女性だった。手慣れた動きで商品のバーコードを読み取りながら、彼女はふと目をアオに向けた。その視線は、彼の金髪を一瞬だけ厳しい色で捉え、ほんのわずかに眉をひそめるような表情を浮かべた。だがすぐに、接客用の柔らかな笑顔に戻った。
「ポイントカードはお持ちですか?」
店員が尋ねると、アオは一瞬戸惑いながら斎藤の方を見た。斎藤がカードを持っていないことを伝えれば、店員は会計を進めた。アオはその間も少し緊張したように店員の顔をチラチラ見ていたが、店員の表情は最初の一瞬以外は特に変わることはなかった。しかし、どこか冷たさや距離感を感じさせる微妙な空気が、店内のざわめきの中に溶け込んでいた。斎藤はそんな空気を察しつつも、あえて口を開かなかった。ただ、アオの肩を軽く叩いた。
会計を終え、二人はそっとレジを離れた。商品をレジ袋に詰め終えると、また地上階に戻る。アオはまだ少し興味深そうに、他の店を見渡していた。洋服店や雑貨屋、本屋の明かりが遠くに揺れている。
「もっと色んな店を見てみたいんだ」
アオがそう言う間も、斎藤は周囲の視線に気づき、少しだけ顔をしかめた。放たれる無言の視線は、決して温かいものではない。先ほどの女性店員のように、アオを冷たく刺す視線だ。だがアオ自身は、そんなものはまったく気にしていないようだった。ちらりと周囲を見ても、鼻で笑うような軽い表情を浮かべているだけだ。
「でも周りの目が、あまりよくないみたいだ」
アオは肩をすくめて軽く笑い、淡々とそう溢した。斎藤はそんな彼の様子に安堵しつつも、少しだけ身構える。
「……帰るとするか」
そのように声をかけると、アオは目を細めて微笑み返し、静かに頷いた。二人はゆっくりとショッピングモールの出口へと向かった。
再び外へと出ると、日差しは傾き始めていた。真上から照りつけていた太陽は西へ移り、空にはかすかな橙が滲み始めている。顔にまとわりつく湿った風が、汗ばんだ肌にまとわりつき、嫌なべたつきを感じさせた。通りの向こう側には、色褪せた看板が揺れ、遠くで車のクラクションが鳴っている。
二人は来た道を戻った。斎藤は少し眉をひそめ、日差しを遮るために手をかざした。アオはといえば、相変わらず冷静な表情のままだった。二人の影が長く伸び、路面に溶け込んでいった。だが、少し離れた場所に落ちたその影は、まるで別々の方向を向いているようにも見える。
「あの店、金髪なのはぼくだけだったね」
アオの声に斎藤は答えなかった。ただ足音だけが、通りの静けさに響いた。
「日本人以外がいなかったのかな。まだ日本と他のアジア人の顔の区別がつかないから、わからないけど」
アオはそう言って、小さく息を吐いた。沈黙がまた訪れる。
しばらくして、アオが斎藤の横顔を見た。まっすぐ前を向いたまま、何も言わずに歩くその表情に、しばらく視線を留める。
「……斎藤」
アオの歩みがぴたりと止まった。斎藤も無言のまま、すぐにその場で立ち止まる。
「きみは何も、ぼくに聞かないんだね」
アオの声は責めるわけでもなく、ただ静かな確認のようだった。夕焼けの光が彼の頬に柔らかく触れ、淡く赤みを帯びていく。金色の髪は炎のように揺らめき、揺らめくたびにその秘密めいた色を変えていた。斎藤はゆっくりと口を開いた。
「最初からそう言っていたな。『何か質問はあるか』と」
短く言い放ち、斎藤はアオの視線を避けるでもなく、ただ空を仰ぐように顔を上げた。
「別に、話したければ勝手に話せばいい。話したくなければ話さなくていい。同じように、私も聞きたくなれば聞く。今はそのような気分ではないというだけだ」
一拍、風が吹き抜けた。
「……会話とはそういうものだ」
砂の匂いと、どこか遠くで誰かが夕飯の支度をしているような匂いが混じり、斎藤の胸の奥をやさしく撫でた。
アオのことを気味が悪いだなんて、思うわけがない。彼の碧の瞳は何も語らない。だが、それが彼の答えなのだと、斎藤は感じていた。
「今のあんたが望んでることは、会話とは言えない。それは自己意思の放棄にすぎん」
アオは立ち止まったまま、数秒ほど斎藤を見つめていた。そして、不意に小さな笑みのようなものを浮かべた。
「……ふうん」
軽く鼻で笑うように呟くと、アオは再び歩き出し、今度は斎藤のすぐ隣に並んだ。歩幅を合わせるとき、一瞬だけ、横目で斎藤の顔を見やる。
「じゃあ、そういう気分だから、ぼくの一番の秘密を教えてあげる」
小さく区切りをつけるように言葉を置いた後、アオは低く囁いた。
「――ぼくは不老不死なんだ」
斎藤の瞳がわずかに揺れる。
「信じる?」
問いかける声は柔らかいが、どこか試すようでもあった。斎藤は少しだけ顎を引き、考えるように数歩を歩いた。
「嘘だとは思わない。が、わからない」
斎藤の声は変わらず平坦だった。ただ真摯に、アオに向き合いたいと考えていた。
「なぜ私にそんなことを言ったんだ?」
アオは一瞬だけ斎藤を見つめたあと、目を細めて視線を逸らした。そして、肩の力を抜くように、ふっと笑った。
「きみなら信じられると思ったから、なんてね」
軽く告げるその声に、深い本音がどこまで含まれていたのかは、斎藤にはわからない。ただ風だけが、ふいに吹き抜けていく。アオの髪が風に揺れ、金の糸のように夕日を受けてきらめいた。
沈黙が一度、ふたりの間に落ちる。やがて、アオが何事もなかったかのように口を開いた。
「今日の食事はさっき買った餃子がいいな」
何事もなかったかのようなその一言に、斎藤は淡々と応じる。
「今日は野菜炒めと、家にある開封済みの冷凍食品だ。餃子は明日、私が仕事に行っている間に一人で食べていろ」
「昨日会ったばかりのぼくに留守番を任せるなんて不用心だよ」
アオがからかうように言うと、斎藤は真顔のまま、ほんのわずかに目を細めた。それはほとんど見逃しそうになるくらいの、ささやかな笑みだった。
「大丈夫だ。あんたは『いい人』だろ?」
二人の影は、並んで地面に伸びていく。アスファルトに描かれたその輪郭が、歩くたびに揺れ、少しずつ寄り添っていく。やがて重なった影の中で、どちらが誰のものか、境界はもうわからなかった。
それでも斎藤は、何も言わずに、同じ歩幅で前を歩いた。