深宵

 その男は疲弊した体に鞭を打ちながら、住宅地を繋ぎ合わせている暗い路地を歩いていた。生きものの気配はひとつとしてなく、周囲の家の明かりは消えているところがほとんどだ。それもそのはずで、時計の短針は既に一を指している。行く先を照らす街灯は寿命が近いのか時折点滅しており、男の歩みの助けにはならなさそうだった。男は顔を上げる。視界いっぱいに広がる薄雲の向こうにあるのか、今宵は月は見えそうにない。
 三十路になる男の顔には濃い隈ができていた。眉辺りで切り揃えられた黒髪は所々長さにばらつきがあり、同じように肩辺りで切り揃えられた髪は下の方で無造作にひとつにまとめられている。暦の上では秋のはずだが、夏と変わらない暑さのためか白色の半袖のワイシャツを着ている。黒のズボンは皺が目立ちくたびれていた。背負われたリュックサックに飾り気はなく、中に物は多く入っていないようで薄い。その男の何よりも特徴的なところは夜と同じ色をした瞳だろうか。どろりと濁ったその小さな空に星は見当たらない。
 おぼつかない足取りは疲れのせいか暗がりのせいか本人にもわからなかった。誰かに見られたら悲鳴でもあげられそうだ、と男は眉を下げる。何度も道は分かれ目を提示してくるが、久々に帰る自宅でも道は忘れていないもので、その足が止まることはない。最寄り駅から徒歩十五分、疲弊した今の男の速度では二十分。そこが男の住むマンションだった。
「夕飯、は今更いいか……」
 痛む頭を押さえながら、男は呟く。家の冷蔵庫には何が入っていただろうか。それすら思い出せず、ただ足を動かす。まあ何かしらが入っていたところで夏真っ盛りの八月の間に一度も開けていないのだ、食べられるものがある方が恐ろしい。せめて酒だけでも家にあって欲しいものだが。そう考えて、ひと月も我が家に帰っていなかった事実に男は愕然とした。現実から目を背けるように、男は他のことを考えようとする。しかし曖昧な思考では、まるで現実から逃げるなと言わんばかりに、ほぼ自宅と化している職場のことばかり頭に浮かぶ。成果のでない研究、足りない予算とサンプル、急かしてくる上層部。男は深く溜め息をついた。
 諦めて仕事のことを考えながら歩き続けて五分ほど経った頃だろうか。男は路地の左手に現れたマンションを見上げた。よくある築十数年の五階建て、その四階の一番端が男の部屋だった。ようやく見えた自宅に胸を撫で下ろし、エレベーターに乗るためエントランスがある裏へ回ろうとする。
 そして、それに出会った。
 路地から続くエントランスまでの小道の脇には、咲き誇る草花と住民用のゴミ捨て場がある。草花の種類は男にはわからない。しかし年中何かしらが咲いているところを見ると頻繁に整備している人がいるに違いない、まめなことだ。男は通る度に知らない誰かに感心する。小道の始点とエントランスまでの中間に設置されたゴミ捨て場には、夜の内から大きな袋がいくつか置かれていた。明日は水曜日、ゴミの日だ。
 そうして無秩序に置かれたゴミの集まりの中に、あきらかに異質なものが転がっていた。男はそれを気にとめることなく通りすぎた。しかしエントランス入り口を目前にした辺りで足を止め、眉間を押さえながらその場に戻ってきた。
「……は?」
 見間違いではないかと男は何度か目を瞬かせた。夜の黒にゴミ捨て場は溶け込んでいる。だから気が付くのに少し時間がかかったのかもしれない。だが一度認識してしまえば、暗さなどどうでもよくなるほどに異質な光景がそこには広がっていた。普段ならば気にもとめないであろうゴミ捨て場には間違いなくそれが、人が、居た。集まっていたのではなく寝床のように集められていた袋の山の中心で、それは横たわり目を閉じていた。
 細身の少年だった。歳は十七、八といったところだろうか。少年の体は全体的に土で汚れている。麻で作られたと思われる長袖のシャツとズボンは服と呼ぶには損傷が激しく、かろうじて布を身に纏わせているという表現の方が適切に感じられた。しかし破れ目から覗く肌に傷はない。汚れる前は美しい金色をしていたのであろう糸のような髪は、右肩へ流すようにひとつにまとめられ胸辺りに垂れている。髪と同じ色をした睫毛は長く、伏せられた目の下には濃い隈ができていた。
 きっとこの少年は美しい部類の人間に入るのだろう。人の美醜をあまり気にしたことがない男ですらそう考えるほどに、少年の造形は整っていた。だがそれ以上に、なんて全体的に薄い少年なのだろう、と男は思った。体の線ではなく、目を引く見た目をしているはずの、その存在自体が。
 そも何故こんな場所で寝転がっているのだろうか。男は膝を折り、手を少年の口元へと近付けた。少年が微かにながらも呼吸をしていることを確認して、肩を撫で下ろす。しかし同時に、この少年は確実に関わってはいけない案件だ、と男は感じた。ゴミ捨て場は表の路地からは見づらい位置にある。マンションの住人かゴミ回収の人間くらいしか少年に気付くことはないだろう。男は住人全員の顔を鮮明に覚えているわけではないが、少年を見たのは今が始めてだったと自信をもって言える。勿論この一ヶ月で入居した可能性もあるが、だとしてもゴミ捨て場で汚れて倒れている理由がわからない。
 男は頭をかいた。正直このまま放っておいても男に不利益はない。五体満足に生きているのであれば一人でどこへだって行けるだろう。もし朝までに起きずとも、きっと他の誰かが助けてくれるだろうし、最悪の場合には警察に連絡がいくに違いない。久々の休みに面倒事に巻き込まれるのはごめん被りたいところだ。
 男は少年を見捨てることにした。立ち上がり、エントランスの方へ足を向ける。

「おい、大丈夫か?」
 そのはずだった。毛頭そのつもりはなかったのだが、男はなぜか声をかけていた。思わず自分の行動に驚く。疲労による眠気と頭痛が男を襲い始めている。そのせいなのかもしれない、などと思いながら男はもう一度しゃがみこんだ。少年はまるで起きる様子がない。男は少し悩んで、恐る恐るといった手付きで少年の肩を軽く揺さぶった。少年と接しているゴミ袋が小さく音をたてる。それでも少年に変化はなかった。意識を失っている相手に対し、もしかすると肩を揺さぶるのは悪手だったのかもしれない。そう考えた男は手を退け、もう一度呼び掛けながら少年の肩を叩いた。これだけ声をかけたのだ、もし次で起きなかったら流石に帰ろう。自分の意見に頷きながら、何度か肩を叩く。
「ん……」
 三回ほど肩を叩いたころだろうか、少年がわずかに身動ぎした。男の手が止まる。男は少年の顔を急ぎ見た。やはり目は閉じられたままだったが、わずかに口が開いている。意識が戻ったわけではなく、反射で声が出たのだろう。その様子を確かめた男は眠気を振り払うかのように立ち上がった。
「……しょうがない」
 男は肩を回した。動きに合わせて肩は運動不足を訴える。男は深く息を吸って吐き、自身の頬を叩いた。なるべく音をたてないように男は少年を囲む袋を端に移動させていく。そうして作った足場は運動しても申し分ない広さだ。男は肩幅に足を開き、少年の脇に右腕を通して肩を組むように持ち上げた。覚悟していた重さよりもはるかに軽い少年の体に目を見開く。少年の身長は男の身長よりもわずかに小さく、体型も痩せ型だ。だとしても、その体はあまりにも軽すぎた。男は眉をひそめながら、少年を抱え直し体勢を整える。
 そうして男はゆっくりと歩き始めた。不可抗力だが、少年の靴先は引きずられて擦れている。いくら軽いとはいえ、体力のない男には、意識のない人間は大きな負荷でしかない。男の息が上がり、腕は震え始めている。
 なぜ自分はこんなことをしているのだろうか。頭はわからないことに対し、非合理的な行動だ、と訴えてくる。ただそれでも、ここで見捨ててはいけない、と誰かが叫んでいる気がした。だから男は一歩一歩を踏みしめながら先を目指す。人肌にしては冷たい温度を肩に感じながら。


 玄関にビニールシートを敷く。男はその上に少年を寝かせ、上からバスタオルをかけた。ほとんど帰ることのない自宅だが、仕事の書類等を持ち帰ることもあるためセキュリティはしっかりして欲しい、という要望と予算に合致した物件が今の男の住み処だ。玄関は人を転がすことができる程度に余裕があり、一人暮らしにしては広すぎると感じていた自宅に男は感謝した。

 家に着いてもついぞ少年は目を覚ますことはなかった。しかし、勝手に少年の服を剥いで風呂にいれることも汚れた服でベッドに寝かせることも躊躇われ、男は玄関に寝かせる措置をとることにした。少年はシートの上で寝息をたてている。わずかだが顔や指先に色味がつき先ほどよりも生を感じられるようになった少年を背に、男は玄関をあとにした。
 玄関をあがるとすぐに短い廊下があり、扉が左にふたつ、右にひとつ、正面の突き当たりにひとつ存在していた。左手の扉はトイレと洗面台及び風呂場に続いており、右手の扉は今は使われていない洋室に続いている。
 男は居間へと続く正面の扉を開け、部屋の電気をつけた。居間もまた一人暮らしの賃貸にしては広く、左手にあまり使われた形跡のないカウンターキッチンが設置されている。カウンター向こうには二人用のダイニングテーブルと椅子が二脚置かれており、右手側には本が積み上げられたワークデスクとベッドが置かれていた。ベッド横にはハンガーラックが置かれており、シャツやジャケットがかけられている。床には紙束や本、クッションが散乱している。扉と向かい合うようにして男を出迎えてくれるのは、これまた大きな窓だ。外に出ればベランダから近隣を見下ろせるが、今は分厚いカーテンが閉められているため外は見えそうにない。木の素材でできた家具や黒でまとめられた小物など、一見して統一感のある部屋だ。まるでモデルルームのようだが、机や床にできた本の山が、この部屋にも人が住んでいるのだと主張している。
 リュックサックをワークデスクの足下に置くと、男はキッチンの方へ足を向け冷蔵庫を開いた。中には消費期限のきれた豆腐とチョコレート、飲みかけの日本酒が入っている。男は嘆息をもらし、豆腐とチョコレートをゴミ箱に投げ入れた。代わりに冷蔵庫横に置いてある段ボールから水のペットボトルを取り出し冷蔵庫に入れる。最後に日本酒の瓶を取り出すと冷蔵庫を閉じた。男はついでとばかりに冷凍庫も開ける。封がすでにきられた冷凍食品の山の中から塩ゆで枝豆と書かれた袋を取り出し、勢いよく冷凍庫を閉める。これまた流れ作業とばかりに棚から耐熱皿を取り出すと、袋の中身を全て皿にあけた。ラップをかぶせてレンジに入れ、適当な秒数に合わせスイッチを押す。レンジは設定された秒数だけ中のものを温めるため、一度小さく振動して稼働した。
 男はキッチンをあとにする。ダイニングテーブルに持っていた瓶を置くと、側に置いてある椅子を移動させ始めた。開けっぱなしにしてある扉の正面、玄関が見える位置に調整しながら椅子を置く。男は床に落ちていたクッションを拾って椅子に敷いた。次にテーブルを先ほど移動させた椅子の方へ押した。瓶は慣性の法則に従って机上で倒れ、男の方へと転がっていく。男は腹で瓶を受け止め、重い音を鳴らしながらテーブルを椅子の真横まで移動させた。納得する配置になったのか一息つく。
 ちょうどその時に軽快な音が鳴り、枝豆の解凍が終わったことを知らせてくれた。男は椅子から離れて、レンジの方へと歩いていった。レンジを開けるとこもっていた熱気が解放される。中から皿を取り出そうとするが、熱かったのか皿に触れた指をすぐに引っ込めた。男は少し考え、ワイシャツの裾で手をくるみ、布巾代わりにして皿を取り出した。その状態のまま椅子へと戻ると、皿をテーブルに置く。
「さて……」

 男は椅子に座ると瓶の封を開け、一気に日本酒を煽った。体に辛口の日本酒がしみわたり、喉が焼けるように熱くなる。ああ、と低い声が漏れ出た。男は口をぬぐい、まだ湯気のたつ枝豆をつまむと片手で皮から器用に豆を出して食んだ。ほくほくとした実に適度な塩加減が豆のうまさを引き出している。男の手は止まることを知らず枝豆をつまみ続けた。合間合間にもう片方の手で持った瓶に口をつける。瓶の中身がみるみる減っていく。
 それはどこにでもいるような疲れ切った中年の姿だった。だが男の目は鋭く、玄関にいる少年から目線が離されることはなかった。少年は相変わらず身動ぎすることなく寝続けている。
 皿にのる枝豆が殻の方が多くなってきた辺りで男は席を立ち、床に置かれている本を一冊手に取った。椅子に座り直し表紙を開く。それは英語で書かれた書籍だった。新書サイズの紙には白い部分の方が少なく、ページを数枚めくると図やグラフも記載されているのがわかる。厚さが指の一関節ぶんほどあるその本を、男は難なく読み進めていく。
 この本が読み終わるまでに目を覚ませばいいんだが。そう時折少年に目を向けながら、男は綴られる内容に没頭した。


 浸り、思考し、また浸り。いつの間にか寝てしまっていたらしい。男の意識が浮上したのは、衣擦れの音が聞こえた時だった。デスク上の置時計は昼前を表示している。膝上に開いたままになっている本を閉じて目を擦った。開眼と共に呆けていた頭が徐々に覚醒していく。深く吐いた呼吸は酒気を帯びていた。自宅だというのに座ったまま睡眠を取ってしまった理由を、疲れの抜けきらない体は覚えている。
 男はゆっくりと顔を上げた。電気がつけられたままとはいえ部屋はどこかほの暗い。しかしカーテンの隙間から差し込む光によって、男の眼前には黒々とした影が生まれていた。秋のやわらかな陽は男に目もくれず、ただ真っ直ぐにその先を照らしている。それが当然だったかのように、光が差すことで完成される空間だった。

 座り込んだ少年の燦然と輝く髪は、角度によってわずかに色合いを変えながら陽を反射していた。黒い隈に白肌、薄く色づいた頬と唇。口と瞳はぼんやりと中途半端に開かれている。浅葱色のような、青とも緑ともつかない色をした双眸は虚空の一点を捉えていた。
 初見でも思ったが、やはりずいぶんと造形が整っている。男は自宅の玄関とは思えないその光景を黙って見つめる。少年は男に気付いていないようだった。口を開いては閉じ、垂れぎみの目尻が長い睫毛を震わせる。何度かそうした後、やがて一点へと少年は手を伸ばした。だが、なにかを捧げるような動作は腕を伸ばしきる前に止まる。表情は変わらない。手を下ろしながら、少年は緩慢な動作で首を男の方へと向けた。そうして視線と視線が初めて交わり合った。輝きはないが飴玉が溶けたような透明感が男を貫く。
「……おはよう」
「……」
 目が合うまでの少年の一連の動作は、そこに虫がいたから、とばかりの動きだった。なにも読み取れないその瞳から目を反らしそうになりながらも、男は少年に声をかける。少年は微動だにせず男の一挙一動を見ている。男は先ほどと立場が逆転したことを痛感した。
「あー、その、昨夜なにがあったのかは覚えているか?」
 ぎこちない笑みを浮かべて男は話しかけた。
「……帰る場所はわかるか? 名前は?」
 少年は答えない。
 男は笑みを消して大きく溜め息をついた。椅子を引いて立ち上がると、少年の方へと歩いていった。影が被さり、少年の瞳孔が大きくなる。男は少年と目の高さを合わせた。
「残念だが、私は聖人じゃないんだ。なにも答えないのも回答のひとつだとは思うが、そうなるとこちらも警察を呼ぶ必要がでてくる。わかるか?」
 対話の方法を変えたのか、諭すように男は話しかける。少年は答えない。男は眉を下げる。諦めて携帯電話を手に取ろうとして、はたと手を止めた。少年に変化らしい変化はない。いや、無さすぎるのだ。感情らしいものを見せないまま、ただ少年は男を見ている。合わせていた男の目の方が泳ぐ。ただ虚無がそこにあった。
「まさか、言葉が通じない、いや、耳が聞こえないのか……?」
 男は眉間に皺を寄せる。どちらにせよ面倒なことになってしまったな、と心中穏やかではない。
「まいったな……」
 男は筆談をするために携帯電話を取り出した。メモ機能を起動させながら、後者の可能性にも賭けて話しかける。
「Can you understand what is being said? (今話している言葉は理解できるか?)」
 少年の口がわずかに動いた。しかし返事はない。
「なるほど、全く聞こえていないわけではないんだな」
 男は少し安堵する。あとはドイツ語しか自信はないが、と男はまた話しかける。
「Würden Sie die Sprache verstehen, die Sie jetzt sprechen? (今話している言語ならばわかるか?)」
 英語で話しかけたときよりも少したどたどしいが、ドイツ語を第一言語にする人間が聞いても不愉快に思わない口調だった。それと同時に、起動させた携帯電話のメモ機能に先ほどの内容の文章を表示させる。文章は英語、ドイツ語、イタリア語、と数ヵ国語で記されている。少年は男の目から画面へと視線を移した。左から右へと何度となく瞳が動く。しばしそれを繰り返して、ようやく少年はそれ以外の挙動をみせた。
「ん」
 少年はドイツ語を指でなぞる。
「……Gehe ich recht in der Annahme, dass Sie aus einem deutschsprachigen Land kommen, aber die deutsche Sprache nicht sprechen? (ドイツ語圏出身だが話せない、という認識でいいか?)」
 少年はものを書く仕草をする。ああ、と男は呟き携帯電話を渡した。少年は両手で携帯電話を受け取った。手の中の電話を回転させ、裏返す。凹凸部分を触ってはそれを押す。少年のそれは未知のものを触る手付きによく似ていた。男はその様子を見て、少し待ってろ、と言うと小走りで居間へと戻った。忙しない手付きで、床に散らばった書類の中でも裏が白く使わないものを選びとる。デスク上のペン立てから音をたててペンを掴むと、少年の元へと戻った。
 男は黙って紙とペンを少年に手渡した。交換するように両手で携帯電話が返される。少年は紙を床に置いて何かを書き始めた。男は返された電話をズボンのポケットに入れた。そのまま少年の横へと滑るように移動し、文字が生まれると同時に紐解いていく。

『Ich möchte gerne ein Übersetzungswörterbuch für dieses Land ausleihen. Die Übersetzung kann in jeder Sprache erfolgen. (この国の翻訳辞典を貸して欲しい。翻訳対象はどの言語でもいいから)』
 美しい文字だった。流れるような、しかしけっして読みにくくはない書き文字だ。少年は横目で男を見る。男は了承の意を込めて頷いた。少年も頷き返し、また文字を生み出す。
『Ich will nicht, dass Sie andere kontaktieren. (他者には連絡しないで欲しい)』
 その文章を読んで、男は携帯電話をポケットに入れた際に、そのままにしていた手をゆっくりと出した。両手を肩ほどに上げ降参のポーズをとる。
「Okay. Schwören wir, dass wir niemanden kontaktieren. (わかった。連絡しないことを誓おう)」
 少年の目がまた男の目を貫く。男もまた見つめ返す。しばらくしてペンが手から離れた。どうやら納得してくれたらしい。男はそれを確認して立ち上がると、少年に手を差し出した。
「……Das Wörterbuch ist hier drüben. Komm schon, geh hin. (辞典はこっちだ。さあ、着いてきてくれ)」
 すんなりとその手は取られた。手を引っ張り、男は少年を立ち上がらせる。下に敷いていたビニールシートを踏み鳴らし、すぐ側の扉を開いた。
 今はほとんど使われていない洋室に二人は入る。男は空いた手で電気をつけた。部屋の壁一面に本棚が並べられており、そのどれもに隙間なく本が詰められている。部屋の奥には段ボールの箱がいくつかと圧縮袋にいれられた布団が置かれている。二人が歩くと埃が舞いあがり、男は軽く咳き込んだ。すかさず部屋に設置しておいた換気扇も起動させる。
 本棚の本はある程度分類されて詰められていた。そのため全体に軽く目を通すだけで、目当ての本がどこにあるのかわかるようになっている。少年の手を引いて男はある本棚の前に立つと、独和辞典を一冊取り出した。本の天部分に薄く埃が積もっていたため、一度軽く息を吹きかける。そして、ここからここまで、というように指さしてこう言った。

「Diese Ecke its der Wörterbuchbereich. Verwenden Sie ihn nach Belieben. (この一角が辞典のコーナーだ。好きに使ってくれ)」
 少年は小さく笑みを浮かべて辞典を受け取る。それは男が初めて見た少年の表情の変化だった。男の胸が一度高鳴る。しかしその笑みもすぐに消え、またなにを考えているのかわからない表情へと戻った。少年は男に構わず床に座り込むと、辞典をめくり始めた。換気扇が回る音と紙が擦れる音が洋室に響く。
「……Ich hole dir einen Drink. (飲み物を取ってくる)」
 本を読むのならば静かな方がいいだろう、と考えた男は一度洋室をあとにした。キッチンへと向かい、食器棚からコップをふたつ手にする。いつも男が使っている自分用のものと、めったに使わない来客用のものだ。来客用の方を軽く水で洗う。冷蔵庫から昨夜入れたペットボトルを取り、コップに水を注いでいく。そうして少年について思考を巡らせた。
 ブロンドヘアが天然物であるのであれば、またドイツ語圏出身であるのならば出身国は限られてくる。携帯電話を手にした反応から見て、一般常識がない。しかし辞典を読んでいるところを見ると、他国言語に理解がある。書き文字も美しかった。それだけではなく異国の地で一人、ごみ捨て場で寝ることができる胆力もある。世間知らずのお坊ちゃんなのだろうか。にしては身なりがみすぼらしすぎる。感情表現もあまりに薄い。
「結局どういうことなんだ……」
 あまりに男は少年のことを知らなさすぎた。考えれば考えるほど、謎だけが深まっていく。この短時間で他者に関して知ることができる情報は限られている、と理解はできる。だが自身の胸が痛むことは理解できない。
 男はペットボトルの蓋を閉めた。考え事をしていたせいか、水はギリギリまでコップに容れられている。表面張力のおかげで溢れてはいない。そのように並々と注がれたコップは自分用のものであったため、男はコップに口を近付けて水を飲み、持ち運べる量まで減らした。もう一度、次はコップを持ち上げて水を飲む。胸の痛みが収まったことを感じ、男は口を離した。

 ペットボトルを冷蔵庫に片付け、コップを両手に持って男は洋室へと戻った。ドアは開いたままにしておいたため、両手が塞がっていても問題はない。洋室の入口から中を覗き、男は目を見開いた。水を淹れることに数分もかからない。だが先ほど手渡したはずの独和辞典は床に置かれており、少年は既に別の翻訳辞典を読み進めていた。今読んでいるものはギリシャ語だろうか。その辞典も本当に読んでいるのか不安になる速度でページがめくられていく。速読というには速すぎて、めくるだけの単純作業というには遅すぎる速度だ。拭いきれない違和感が男を支配していく。手がわずかに震えている。
 やがて少年の脇に三冊の辞典が置かれた。どれもが少年が一度手にし、開いたものなのだろう。男は未だ立ち尽くしていた。動くことができなかった。だがその代わりに、男はずっと少年の仕草を観察していた。先ほど知ったことに加え、観察した結果として、少年が男にとって未知の分類の人間であると理解した。天才という分類が一番近しいように思えた。ただ天才にも種類はある。職業柄、男は天才と呼ばれる者を幾人か見てきた。しかしそのどれもにこの少年は当てはまらなかった。
 呆然とする男の耳に知らない声が聞こえた。

「私、ぼく、俺……。一人称が多いな、この国は」
 少年の口が確かに動いていた。男に気付いていないのか、まるで誰かと言の葉を交わすかのように一人で話し続ける。
「これが一番似合ってる? そうかな?」

 男の手からコップが滑り落ちた。床でコップが躍る。靴下は濡れ、男の足が冷えた。入口であるということもあり、周囲に本がないことが幸いだった。少年がゆっくりと立ち上がり、男と目を合わせる。少年は薄い笑みを浮かべていた。
「さて、ぼくを助けてくれてありがとう。いや、まずは初めましてと言うべきなのかな?」
 話せないはずの少年だった。そうではなかったのだろうか。男の頭が痛む。足先だけでなく頭頂まで冷えていくのを感じる。それらが男に現実であると訴えている。未知だからか、理解できないからか。少年の笑みに男は感情を読み取ることができなかった。
「きみの名前は?」
 少年は自身の足が濡れることも厭わないようで、男に近付いた。足元で水が跳ね、ズボンの裾にかかった。少年は男よりも背が低いようで、男は見上げられる形になる。
「……斎藤響だ」
「そうか」
 少年は目を細める。
「ごめんね。ちゃんとぼくも名乗り返してあげたいんだけど、今は名前がないんだ」
 申し訳なさそうに少年は眉を下げた。
 ああ、なんて綺麗な碧だろう。恐怖も困惑なにもかも、抱いていた感情を全てかき消す。その色に男は目を奪われた。透明で、輝きはなく、ただそこに在るだけのその色に。
「……あお」
 だからだろうか。斎藤の口からその言葉が溢れ落ちた。
「え?」
「名前がないと言うのなら、あお、と名乗るのはどうだろうか」
 少年はきょとんとした顔を浮かべる。口のなかで言われた言葉を転がし、また笑った。
「アオ、アオね。うん、きみがそう言うのならば、そう名乗らせてもらおうかな。」
 少年は左手を差し出した。そこで斎藤は目から少年全体へと焦点を広げた。
 なぜこんなことをしているのか。昨夜の問いがまた頭に浮かぶ。正直、少年に聞きたいことは多々あった。だがそれらは後でいい、と斎藤はためらわず左手で握り返す。斎藤はしかと少年を見据えた。
「きっと素晴らしい名前なんだろう。きみはいい人のようだから。
 何度その瞳を覗き込んでも、やはり斎藤には少年の感情がわからなかった。

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